国民文化祭だより 4

公開日 2007年06月07日

勝浦町主催事業「人形フェスティバルin勝浦」で重要な位置を占めるのが「勝浦座」です。10月28日(日)の今山農村舞台に、10月31日(水)午後の「人形と花のフェスティバル」で人形文化交流館に、人形浄瑠璃公演でそれぞれ出演します。

特に10月28日は徳島県主催事業「阿波人形浄瑠璃の世界 車座シンポジウム」で、午後「義経街道娘恋鏡」を演じ終えてから今山農村舞台へ駆け付けて出演するというスケジュールです。現在勝浦座座員一同国民文化祭成功に向け稽古に励んでいます。

 

 

今回は、勝浦座の発祥から現在に至るまでの変遷と、座長からのごあいさつを紹介します。

 

江戸時代末期に久国村の若衆が「若連」として木偶人形芝居の座を創り、大宮八幡神社の祭礼に「三番叟」「阿波鳴」などを奉納、また村の寄り合いなどで上演 し喜ばれていました。しかし天保の大飢饉(1830年代)で衣食住が困難となり人形芝居などの娯楽が禁止され、維持も容易でなく自然に放棄せざるを得なく なりました。

明治維新の頃から人形浄瑠璃は盛んになり、明治5年(1872年)座名を「国村久太夫座」として活動を始めました。そして明治の終わり頃から大正にはすこぶる盛んになり、玄人に近い遣い手も出て近郊へ興行に出向いていました。

しかし昭和6年(1931年)11月、木偶の一切を保管していた久国の地神社境内にあった舞台が全焼し、村持の木偶・道具すべて灰となってしまいました。やがて事変、戦争などで人形芝居どころでなく座は自然消滅したのですが、三番叟だけは個人が保管していたので焼失を免れ、数人により辛うじて続けられ、大 宮八幡神社の祭礼や地神祭に三番叟を奉納していました。

昭和21年(1946年)再興の話が持ち上がり、有志が出資して隣町の人形一切を 買い受け、昭和22年(1947年)「国村久太夫座」(久国座)から「勝浦座」と座名を改めました。そして地区の敬老会や氏神様の祭礼などで上演し、敗 戦後気持ちの沈んだ町内をはじめ県下各地の人々の心を和ませていました。

昭和37年(1962年)徳島農業高等学校勝浦分校(現・勝浦高等学校)で情操教育の一環と後継者の育成を目的に民芸部が設立され、その指導に設立時から現在まで勝浦座座員があたっています。

それらの活動が認められて、昭和49年(1974年)9月「勝浦町無形文化財」に指定され、現在では県内各地の祭礼や敬老会、各種イベントへの招待、海外での上演など年間20回を超える公演をこなしています。

 

 

 

ごあいさつ

勝浦座は、江戸時代から約200年続く人形座で、久国(ひさくに)地区にあった久国座というのが勝浦座の前身です。そして昭和49年9月、勝浦町無形文化財の指定をいただいております。

活動としては、春、秋の久国地区の地神(じじん)さんや秋祭りの大宮(おおみや)八幡神社には「三番叟(さんばそう)」を必ず奉納しており、その他にも上 演できる外題(げだい)は20演目余りありますので、町内、外に招かれて年間20数回の公演をしており、海外ではアメリカやスイスでも公演させていただい ています。

最近では今年1月、東京国立劇場40周年記念公演の「阿波の芸能」で阿波人形浄瑠璃を皇太子様の前で披露させていただきまし た。また、今秋の国民文化祭で全国の皆さまに見ていただくため、瀬戸内寂聴さんの新作人形浄瑠璃「義経街道娘恋鏡」を徳島市の大谷座とともに練習に励んで おります。

現在、勝浦座の人数は男性11人、女性8人の計19人で、年齢は20歳から80歳までの座員がいます。

後継者の育成については、昭和37年勝浦園芸高校(現勝浦高校)に民芸部が設立され、設立当時から勝浦座の座員が指導にあたっています。こうして指導した生徒の中には、プロの人形遣いになった卒業生もいたり、卒業後座の活動に参加してくれている者もいます。

私たち現在座員も、先輩諸氏から教わったすばらしい郷土芸能を後世に残すため、みかんの里の人形座として、これからも精進してまいりたいと思っておりますので、どうかご指導とご支援をよろしくお願いいたします。

 

 

勝浦座座長  池内 勲

勝浦座のみなさん

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三番叟

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